帰国後の新たな冒険:海外から帰ってきた私の就活旅行記!

海外生活からの帰国者が見た、日本の就職活動とその奇妙な冒険。

「特異」大学生活: ハイテク探求者からフリーターへの道

お読みいただきありがとうございます、ティブオと申します。今回は大学生時代の特異な日々から、フリーターとして生きる道を選んだ私の話をご紹介いたします。掘り下げれば掘り下げるほど、私のこれまでの人生は一風変わったもので、これが私の人生の一部だと思ってお読みいただけると幸いです。

大学進学と同時に私の人生は新たな興奮と驚きの世界へ突入しました。それは、英米文化学科ならではの魅力的なアメリカ文学の講義よりも、秋葉原の電気街に広がる未知のテクノロジー世界でした。ある日はCPUを眺め、またある日は最新のGPUの性能を比較し、さらにはRAMのスペックを確認する。それが私の大学初年度の日常でした。その当時はとにかく性能の高いパソコンでオンラインゲームがしたかったようです。

一般的な学生が大学での勉強やサークル、そして新たな友人作りに忙しい中、私の足取りは教室から電気街へと向かっていました。店員さんの顔を覚え、最新パーツの入荷情報を探り、そして自身の理想とするPCを組み立てる。その過程が私の心を満たし、一日を有意義に感じさせてくれました。

その一方で、TOEICの試験対策も進行していました。なぜアメリカ育ちの私がTOEICを受けるのか?それは単なる単位獲得のためだったのです。自分でも思わず苦笑いするほど不条理な状況ではありましたが、それでも見事に850点というスコアを獲得することができました。友人たちは皆、この状況をユーモラスにとらえ、「なぜアメリカ育ちがTOEICなんて?」と私をからかっていましたが、私は少なからずこの結果に誇りを感じていました。

大学生活の中での大きな課題の一つが友人作りでした。私のような特異な趣味を持つ人間が普通の学生生活を送る中で、同じ趣味を共有できる人を見つけることはなかなか難しいものでした。しかし、友人作りに苦労しながらも、私はコツコツと授業に出席し続けました。それは私が大学で一番重視していたのが学業であったからです。入学当初はあまりそういった感覚がなかったものの、学年を上がるにつれて「大学施設をフル活用してやろう」という、まるで食べ放題レストランに来た学生さんのような感覚へと変わっていきました。

そして私が大学生活で特に心に刻んだのが、海外旅行の経験です。当時の彼女(現在は妻)と一緒に数々の国を巡り、その地の文化や風景を直接体験することで、私の視野は飛躍的に広がりました。特に思い出深いのが、パリでのバゲット挑戦です。フランスの伝統的なパンの大きさと、それを食べきる難しさに驚き、そしてそれに伴う腹痛と敗北感を経験しました。

しかし、そんな豊かで楽しい大学生活もあっという間に過ぎ、私の前に待ち構えていたのがフリーターへの道でした。その経験と挑戦について、次回は詳しくお話ししたいと思います。今後の更新もお楽しみに!

 

ダイアルアップ音楽と英語の旋律:帰国子女が高校生活と大学受験を乗り越える旅

どうも、皆さん!ティブオと申します。今日は、洋楽とビープ音が共演する、私の一風変わった高校時代についてお話しします!

 

さて、高校生になった私は、もうすっかり日本人の生活スタイルに馴染んでいました。 アメリカにいた頃の記憶なんて、彼岸花のように咲き誇っては散ったもの。そんな私が日々過ごしていたのは、キラキラと輝く私立学校ではなく、地に足のついた公立の共学校だったんです。

そして、私が一番のお友達だったのは、そう、その頃主流だったダイアルアップモデム。その甲高いビープ音をバックに、毎晩パソコンに張り付いては、海外のゲームや音楽について調査していました。そうして私の英語への興味は再燃し、オンラインゲームを通じて国際的な友達を作っては、チャットでおしゃべりしながら遊んでいたんです。

そんな中、高校生活が後半に突入すると、大学進学の現実が頭上に立ちはだかりました。そう、その時点で私は、再び英語と真剣勝負を挑む決意をしました。 まだ英語学習について本格的に取り組んだことなんてなかった私が、手に汗握る受験戦争の最中に英語学科を目指したのは、まさに青春の一コマですよね。

でも、全てがスムーズに進むわけじゃありません。試験でつまづき、希望していた大学には一つも合格できなかったんです。その結果、滑り止めに選んでいた大学の英語学科に進むことになりました。 平凡な大学かもしれませんが、私にとっては価値ある経験の始まりだったんです。

次回は大学編に突入!英語学科での生活と、帰国子女としての自我の再確認についてお伝えします。このドラマチックな旅はまだ終わっていません、お楽しみに!

 

 

日本生まれ、アメリカ育ち:僕の二重文化体験

12歳のとき、人生は映画のようにドラマティックな展開を見せた。僕のベッドルームからアメリカの広大な庭を眺めていた日々から一転、日本の学校のコンパクトな教室で黒板を見つめる日々になった。そして、そこで僕は日本独自の文化に触れることとなった。

掃除の時間に最初に驚いた。僕の中のアメリカンスピリットは「僕たちが掃除をするのですか?ジャニターさんはどこに?」と悲鳴を上げた。しかし、掃除の時間は、同級生と一緒に教室をきれいにするという新たな協力体験だった。そして、日本ではなんと給食の準備までもが「みんなで手伝う」という共同作業。一緒に作業することでクラスメートとの絆が深まるのを感じた。

さらに、新しい友達とともに漫画研究部に参加した。アメリカンスタイルの僕の漫画は、新鮮で魅力的だったようで、部活で一丸となる絶好の機会となった。アメリカのスーパーヒーローコミックにインスピレーションを受けた僕の作品は、まるで「漫画研究部」が僕のためにあったかのようだった。

しかし、このすべての驚きと興奮の中でも、僕が最も感じたのは英語力の維持の困難さだった。日本の学校生活が長くなるにつれ、僕の中のアメリカが薄れ、自分の半分のアイデンティティが消えていく感覚がした。これは大いに心配だった。そして、それが僕の英語力の問題と直結していたことに気づいた。

中学に上がり、ALT(外国語指導助手)と出会ったことで、自分のアイデンティティと英語力についての悩みを共有できる人を見つけた。英語の授業で、ALTが積極的に僕の意見を引き出してくれたことで、僕は再び英語を使う喜びを感じることができた。

しかし、この苦しみもまた僕を成長させる一部となった。英語の勉強方法を探求する中で、僕は再び英語という言語を楽しむことができるようになった。それは僕にとって大きな学びだった。そして、それが次の章、「高校編」への道を開いたのだ。

 

 

帰国子女のジェットコースター:異星人から学校の人気者へ

いつまでもアメリカ生活が続くと思っていたら、突然、父から「帰国することになった」と告げられた。ちょうど小学校6年生の冬だった。あの時は、さながらエクストリーム・スポーツのようなスリルがあったな。「ああ、これが本当のジェットコースター体験だ!」と内心、ワクワクしつつも、新たな生活への不安が心に広がっていた。

初めての帰国は、まるで映画の一シーンのようだった。おそらく母は、僕が学校でいじめられるかもしれないと心配していた。でも実際は、日本へ帰国したばかりの僕は、まるで稀な動物を見るように珍しがられ、あっという間に友人に恵まれた。なんというか、自分が突然、学校の人気者になった感じだ。

英検のテストを受けたら、なんと準一級に合格した。しかし、アメリカの全州を暗記できたのに、日本の都道府県が全くわからなかった。まあ、マサチューセッツ州よりも岩手県の方が発音しにくいから、無理もないと自分を慰めた。

そして、アメリカのピルグリムや大統領の歴史は習ったけど、日本の歴史はまったく新鮮で何もわからなかった。ただ、新しい視点を持っていた僕にとって、全てが面白おかしく感じて、気持ちが寛大になれたような気がした。まるでタイムマシンに乗って江戸時代に行ったような、そんな感じだった。

これが僕の帰国子女としてのジェットコースター体験だった。

 

 

アメリカンスクールとトレカ大戦争

アメリカの学校生活で初めての衝撃、それは教室であった。「なんと先生が授業中にご飯を食べていたのだ!」と思わず声に出してしまったのは、日本の教室での先生のイメージが強すぎたからだ。先生が授業中にランチを食べるなんて、日本では考えられない!しかもその横では、長いリムジンで登校するお金持ちの生徒が!でも心配することはない、うちはただの普通の家庭だから。

そしてもう一つ、アメリカの教育体系での驚きはその教育体系だった。「飛び級や留年がある」ことが本当に驚いた。日本では全員が一緒に進む学校生活だけど、ここでは個々の学力に合わせてクラスが分けられていた。よくできる子はどんどん先へ進む。逆に授業に遅れを取ると、留年が普通だった。それにプレゼンテーションやディスカッションが多く、図書館でひいひい言っていたのも事実だ。

そういえば、小学校でも選択授業やレベル別のクラスがあり、同じ教室にいる同級生でも数学の時間になると別のクラスに移動して問題を解いていた。私も運よく同じハイレベルクラスに入っていたが、電卓を教えてくれる先生はインド出身で、計算は完全にインド式だった。それに小学校の段階で株取引を学んだりもしていた。教師の役割についても、担任はいるものの、日本と同じようには厳しくなかったように思う。

それから、アメリカンスクールでの友情の形成に欠かせないのがトレーディングカードだった。特にNBAのバスケットボールカードが流行っていた時期には、トレカを持っていない子はいなかった。私は特にバスケットボールカードと湾岸戦争のカードをコレクションしていた。湾岸戦争のカードは戦車や兵士が描かれており、戦闘シーンを再現して遊ぶのが楽しかった。あのカード交換のドラマは今でも鮮明に覚えている。

これが私の初めてのアメリカの学校生活の一部だった。

 

 

アメリカに降り立った一家と日本人不在の新天地

それはまるで火星に降り立った宇宙飛行士のような感覚でした。新天地、アメリカに降り立った我々一家は、新たな生活に驚きと期待、そしてちょっぴりの恐怖が混ざり合っていました。

引っ越したアメリカの片田舎は、お寿司やお花見といった日本の文化とは大違いの世界でした。その代わりに、フランクフルトやベースボールが溢れる街並みが広がっていました。特に気になったのは、駄菓子屋が見当たらないこと。「ここは、どこにでもあるはずの駄菓子屋はどこに?」と小さな私は心の中でつぶやきました。

そして、「ここは何もかもがデカすぎる!」と言ったのは、普段はとても上品で落ち着いた性格の母ですから、それだけこの新天地が驚きだらけだったのです。スーパーマーケットの通路は広く、お菓子の種類は無数にあり、そして何よりも人々の笑顔が大きかったのです。その笑顔に包まれて、我々一家は新たな生活に適応するための第一歩を踏み出しました。

それでも、混乱を感じずにはいられなかったのは、日本人が一人も見当たらなかったことです。それはまるで、あの大好きだった駄菓子屋の棚から一番好きな駄菓子が消えてしまったときのショックと同じでした。

 

 

 

 

しかし、我々一家は負けませんでした。日本を忘れないために、家族で日本食を作る日を設けたり、日本の映画を見る時間を作ったりしました。新しい環境に適応する一方で、我々は自分たちがどこから来たのかを決して忘れないようにしました。

今回はこの辺で。次回はアメリカの教育体系と、小学校の校庭で繰り広げられたトレーディングカードの戦争についてお話しします。次回も私たちと一緒にアメリカ探検の旅を続けてくださいね!お楽しみに!

いきなりアメリカ?!引越しとバブル時代の出発

皆さん、こんにちは!今日は私の物語の最初のページ、つまり私がまだ幼稚園生だった頃に家族とアメリカへ移住した話を皆さんと共有したいと思います。思えば私たちの家はあの日、まるで熱風を受けたサボテンのようにパニック状態でした。

私たちの両親は突然、「お父さんの転勤でアメリカに引っ越すことになったよ」と爆弾を投下しました。もちろん、私はその時まだ幼稚園生だったので、「引っ越し」という言葉の真意を理解するどころか、ぬいぐるみの名前にすら困る年齢でした。

だけど、その時初めて「引っ越し」という言葉を覚え、これが大人になるための一歩だったのかもしれません。そして私たちの旅は、日本のバブル経済が華々しく花開く時期と同時に始まりました。

これからも私の冒険の続きをお楽しみください。次回は私がどのようにしてアメリカの学校生活に適応したのか、その全てを明らかにします!お楽しみに!